ダニエル書 9章24節~27節
あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。
その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。
彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
預言書「ダニエル書」には、
メシヤはエルサレム再建命令が出されてから
69週目に来ると預言されています。
エルサレム再建命令が出されたのはBC457年。
69週は、69×7=483(日)。
聖書では1日を1年として解釈できるので、483日は483年になります。
【1日1年説】
民数記14章34節
あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」。
エゼキエル書4章6節
あなたはその期間を終ったなら、また右脇を下にして寝て、ユダの家の罰を負わなければならない。わたしは一日を一年として四十日をあなたのために定める。
そしてメシヤが来ると預言されていたのはBC457年から483年目のAD26年となります。
イエスはBC4年に生まれたと言われているので、AD26年はイエスが30歳の時であり
ちょうど公生涯出発の年と完全に一致します。
また、「彼は1週の間、多くの者と堅く契約を結ぶでしょう。
そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。」と預言されています。
1週間は7日であり7年間であり、
人類と契約を結ぶ期間(イエスが弟子の確立に挑戦する期間)が与えられていたことを示します。
そして週の半ば、つまり3.5年の時に十字架で死ぬ(弟子の確立に失敗する)という預言です。
事実、イエスは30歳から3.5年後の33歳で十字架にかけられ死んでいます。
【黄金比のノアの方舟】
— おしん:伊藤信也 (@shinyaitou1) 2018年3月2日
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創世記を研究する事で、この様な事が分かります。
● 堕落は、神でなく悪魔を人類が選択した出来事(天で起こった事ではなく、人類の過ち)です。
そのため、人類登場までの創造を完了された後、「はなはだ良かった。」と神は言われました。
もし、人類登場よりも前に堕落があり、悪魔が存在していれば、
宇宙は混とんとしている訳ですから、はなはだ良かった という表現にはならないでしょう。
この様な最高の状態を表すはなはだ良かったという表現は、聖書の中でここだけである事から、
人類の堕落以前は悪が存在していなかった、最高の状態であった事が伺えます。
悪魔・堕落の原点は、アダムとエバの失楽園にあると言えます。
● 堕落以前の人類は、神に作られた神の子の状態であり、人類初代に目を向ければ性善説です。
その為、人類には正しい道を歩む希望を見出すことが出来ます。
● 結婚の契約とは、労働の契約と違い、条件付きではなく全人格を相手に捧げるものです。
蛇と実際の姦淫は出来ない為、ここで言う姦淫の意味は
本来結婚すべき相手(神)を捨て、
別の者(悪魔)と結婚関係を築いた(心の世界の)人類の過ちを言っており、
悪魔と一体となった初代人類から生まれた人類が「蛇の子、マムシの子」と
イエスが表現した所以です。
● 堕落から身を守る「取って食べてはならない」は、
女性が創造される前の男性に与えられた神の警告であった事から、
男性が主体の使命を持つ位置にあり、女性は仕える(助け手)位置にある事が分かります。
これは役割の違いであり、神様がアダムにエバを与える時の様子を見れば、
決して男尊女卑の意味ではない事が分かります。
● 性善説ですから、現状の堕落した人間から、本来の形に戻る道として
「命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」という記述があります。
黙示録の「命の書・勝利を得る者は神の子となる」に通じる内容です。
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創 2:7~
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。
そこで人は生きた者となった。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、
更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。
第四の川はユフラテである。
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、
これを守らせられた。
主なる神はその人に命じて言われた、
「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
また主なる神は言われた、
「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、
人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。
人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、
人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、
そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
創 3:1~
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。
へびは女に言った、
「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、
これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、
神は知っておられるのです」。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、
賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、
また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、
いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。
そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、
わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。
食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
人は答えた、
「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、
わたしは食べたのです」。
そこで主なる神は女に言われた、
「あなたは、なんということをしたのです」。
女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
主なる神はへびに言われた、
「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、
野のすべての獣のうち、最ものろわれる。
おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、
あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
更に人に言われた、
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
さて、人はその妻の名をエバと名づけた。
彼女がすべて生きた者の母だからである。
主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
主なる神は言われた、
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。
彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、
人が造られたその土を耕させられた。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、
ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、
命の木の道を守らせられた。
あらゆる場面でタブー視されがちな「男女関係」ですが、
聖書には、これに関して本来あるべき形や戒めが明記されています。
子供への道徳教育・特に女の子の自分の身を守る貞操観念に
具体的に生かすべき重要な内容です。
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申 22:13~
もし人が妻をめとり、妻のところにはいって後、その女をきらい、
『わたしはこの女をめとって近づいた時、彼女に処女の証拠を見なかった』と言って虚偽の非難をもって、その女に悪名を負わせるならば、
その女の父と母は、彼女の処女の証拠を取って、門におる町の長老たちに差し出し、
そして彼女の父は長老たちに言わなければならない。『わたしはこの人に娘を与えて妻にさせましたが、この人は娘をきらい、
虚偽の非難をもって、「わたしはあなたの娘に処女の証拠を見なかった」と言います。しかし、これがわたしの娘の処女の証拠です』と言って、その父母はかの布を町の長老たちの前にひろげなければならない。
その時、町の長老たちは、その人を捕えて撃ち懲らし、
また銀百シケルの罰金を課し、それを女の父に与えなければならない。彼はイスラエルの処女に悪名を負わせたからである。彼はその女を妻とし、一生その女を出すことはできない。
しかし、この非難が真実であって、その女に処女の証拠が見られない時は、
その女を父の家の入口にひき出し、町の人々は彼女を石で撃ち殺さなければならない。彼女は父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。
もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、
あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
しかし、男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。
その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。
これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。
まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、
女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。
だれも父の妻をめとってはならない。父の妻と寝てはならない。
すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。
私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。
アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。
これはあなたがたがエジプトから出てきた時に、彼らがパンと水を携えてあなたがたを道に迎えず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたをのろわせようとしたからである。
しかし、あなたの神、主はバラムの言うことを聞こうともせず、あなたの神、主はあなたのために、そののろいを変えて、祝福とされた。あなたの神、主があなたを愛されたからである。
あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない。
あなたはエドムびとを憎んではならない。彼はあなたの兄弟だからである。またエジプトびとを憎んではならない。あなたはかつてその国の寄留者であったからである。
そして彼らが産んだ子どもは三代目には、主の会衆に加わることができる。
敵を攻めるために出て陣営におる時は、すべての汚れた物を避けなければならない。
あなたがたのうちに、夜の思いがけない事によって身の汚れた人があるならば、陣営の外に出なければならない。陣営の内に、はいってはならない。
しかし、夕方になって、水で身を洗い、日が没して後、陣営の内に、はいることができる。
あなたはまた陣営の外に一つの所を設けておいて、用をたす時、そこに出て行かなければならない。
また武器と共に、くわを備え、外に出て、かがむ時、それをもって土を掘り、向きをかえて、出た物をおおわなければならない。
あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。
主人を避けて、あなたのところに逃げてきた奴隷を、その主人にわたしてはならない。
その者をあなたがたのうちに、あなたと共におらせ、町の一つのうち、彼が好んで選ぶ場所に住ませなければならない。彼を虐待してはならない。
イスラエルの女子は神殿娼婦となってはならない。またイスラエルの男子は神殿男娼となってはならない。
娼婦の得た価または男娼の価をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。
1年は365日で、4年に一度うるう年がありますが、
聖書の預言解釈に於いては、
1年=360日 という計算方法がとられます。
1年=365日はあくまでも、
地球・人間視点で、太陽を一周回る間の日数を数えたものですが、
宇宙・神様視点で捉えた時、
1周は360度という数学公式的視点が軸となる為、
神様から啓示される預言に於ける1年の解釈は360日という捉え方となります。
コリ1 7:38
だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい。
コリ1 2:8
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。
もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
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黄泉から天国への臨死体験
脳外科権威が発表 死後の世界はあった
元悪魔崇拝者ジョン・ラミレスの証
元悪魔崇拝者 「悪魔の手口を暴く」
地獄での23分 ビル・ワイズ氏の証
臨死。そして与えられた2度目の人生
サンダーシングが見た霊界の事実を紹介致します。
彼は、一八八九年インドに生まれた歴史にまれなる霊界探訪者でした。
ここに紹介させて頂く全ての内容は、
サンダーシングが直接見た事実であって、単なる理論だとか観念ではありません。
誰もが、やがて行かなければならない霊の世界をよく知っておくことは、
非常に大事なことと言えます。
私は自分の霊通体験を通して説明を試みようと思う。私が見た霊界全てを言い表す事は不可能である。この世の言葉と比喩とは霊界を表現するのに不適当であり、私が見た栄光を普通の言葉に言い表わそうとすれば誤解を招き易い。従って自分の霊的な体験の中から人の為になり得ると思う、教訓的な出来事を拾い上げて紹介する。早かれ遅かれ全ての人が必ず入って行くべきこの霊界について、ある程度知っておく事はとても有益であると思うからである。
ある日私が一人で祈っていた時に、突然大いなる霊達の群に囲まれていた。即ち私の霊眼が開かれると非常に多くの天使や聖徒の群がる前にかしずいていた。
最初、彼等の輝く姿を見て自分の劣っている有様を知った時多少の恥かしさを感じたが、彼等の真実な同情と愛とに満たされた時、全く心安さを覚えた。私は以前にも、この様な平和な経験を持っていたが、かくも感動的な交わりは初めてであった。語り合いの中で、私にとって困難ないくつかの諸問題を質問すると、これに対して彼等は答えてくれた。私の最初の質問は、死ぬ時にどんな事が起り、また死後の霊魂の状態はどうなるかと言う事であった。私は質問した。『私達は人間の幼い頃から老年になるまでの事を知っているが、死の時に何が起るか、また死の門を越えてその先に何があるかを知らない。これについての正確な知識は、ただ霊界に入った者のみが持つ事が出来る。あなた方はこれについて何かの知識を私に与える事が出来ますか』と。
一人の聖徒が私に答えた。『死は眠る時に似ている。まれに肉体が病気とか精神的条件を除いた以外は、これを越えるのに何等の苦痛もない。疲れ果てた人が深い眠りに入るように、死の眠りもまた人間にやって来る。多くの人にとっては死は忽然として来るから、人々は自分が物質的な世界から、霊の世界へ入った事を悟る事が極めて困難である。彼等の周囲にある多くの新しく、かつ美しい物に逢ってとまどい、いまだ見た事のない物質世界のある国か町に来ていると思ってしまう。彼等が十分に霊界について教えられる事によってようやく死んだ事がわかってくる。彼等の霊体は、肉体の時と異なり実際に物質的世界から霊の国に移ったことを自覚して来る。』
そこにいた他の聖徒が更に私の問いに答えた。『普通の死の場合には肉体が徐々に感覚の力を失い、痛みはなく、ただ眠気に似た感じにおおわれる。時として非常に衰弱したとか不慮の事故の後で、霊は肉がまだ死に切らず無意識状態の中で離れる事がある。こうして霊界についての考えも、思慮も無かった霊は急に霊の世界に移された事によって非常に当惑し、彼等の運命について大きな苦悶に陥り、かなりの間、より低く暗い中間状態に留まらなければならない。
この低い範囲に住む霊はしばしば地上の人々を非常に悩ます事がある。しかし彼等に害をもたらす事の出来る者は、彼等自身と似た心を持ち、その自由意志で彼等をその心の中に迎合する者に対してのみである。
『神に従っていない生活を送って来た多くの者は、死の直前に、無自覚に陥るようである。しかし実際に起って来る事は、彼等の周囲に群がって来る悪霊のぞっとするような猛悪な恐ろしい悪魔的な顔を見る時、言葉も出ず恐怖の為に麻痺するようになる。これに反して神を信ずる者の死の多くは正反対である。彼らは己を迎えんとして来る天使及び聖者らしい霊達を見て極度の幸福を覚える。その時、彼等の愛する先に死んだ人々も彼の死の床にかしずいて、魂を霊界に護衛する事を許される。霊の世界に入るとすぐに心安さを感ずるのは、その周囲に彼の友人を見出すばかりでなく、そこは地上生活の間に神を信じ、神との交わりによって、彼自身が長い間準備して待ち望んだ家だからである。』
その後、第四の聖徒が言った。『人間の霊魂を地上から案内して行くのは天使の仕事である。霊界において常にキリストは御自身を顕わし、各自の貢献の度合に従い、又、魂の霊的発達の状態に応じて、あるいは強くあるいは弱く自らを啓示し給う。しかしある場合にはキリスト御自身がその僕の死の床においでになり、御自ら彼を迎え愛をもってその涙を乾かしてパラダイスの中へ導かれる。丁度、一人の嬰児が世に生れる時に、必要なすべてのものが備えられているように、霊魂もまた霊界に入る時にすべての必要なものはことごとく満たされている事を知るのである』と。
ある時話し合っている中に聖徒等が次のような事を私に語った。
『死後すべての人の魂は霊の世界に入り各自霊的発達の程度に従い、その人自身の心と性質とに似かよった霊と共に、あるいは暗黒の中に、あるいは栄光の輝きの中に住むようになる』。
この話の後これらの聖徒等は私を連れて、あたりを案内して多くの驚くべき物や場所を見せてくれた。私は各方面から無数の霊魂が皆、天使に守られ常に霊界に到達するのを見た。善き霊魂は天使及び善き霊のみがともにあって、彼らの死の床より護衛したのである。悪霊は彼らに近づく事を許されず、はるかにはなれて見つめるのみである。私は又、真に悪い人の魂には一人の善い霊もおらず、その死の床に悪霊が集まって来て彼を悩ましているのを見た。しかし同時に天使達もまた傍に立って悪霊達が彼等の悪意を以て彼等を悩ますのを防いでいるのを見た。悪霊達は殆んど直ぐに彼等の魂を暗黒の中に連れ去ってしまう。それは彼等が肉体であった日に絶えず悪霊が悪い感化を与えることを許し、総ての悪の種類をもって誘う事を喜んで許したからである。それは天使といえども人間の自由意志に決して干渉する事が出来ないからである。
私はまた、悪霊または善霊にかしずかれて最近霊の世界に入って来た魂を見た。しかしすぐに彼等の生涯における根本的な差別が起り始め、自らの心のままに分れるのである。品性の善いものは善の方向へ、悪いものは悪の方向へと進んで行く。
地上の生活ではすべてが混在しているが人の魂が霊の世界に達するとすぐ善と悪は直ちに離れてしまう。善の霊の場合は霊の世界に入るやまず空気のように透明で清朗な太洋の水に浴し、その中で強く健康にされ、元気を与えられ、清新さが溢れるようになる。この驚くべき水の中を自由に動き回る事は、丁度戸外の空気の中のようであり、決して溺れる事がなく、また濡れる事もない。ただ不思議に潔められ、新鮮にされ、全く純粋な心になって、栄光の世界に入って行き、そこで彼らの愛する主の前にいつまでも留まり無数の聖徒及び天使と親しく永遠に過ごすのである。
悪い生涯を送っていた魂が如何に前者と相違するかを示そう。彼らは正しい霊達の中では仲間としている事が出来ず、白日の下にさらされてしまう自分の過去の過ちに悩まされ、その不潔と罪とで汚れた性質が見えない所へ自分を隠そうとしてもがき始める。
霊の世界の最も低く、最も暗い所からは黒い悪臭の煙が立ち昇り、これらの悪霊等は自らその中に真っ逆様に自身を投げ込んでしまう。その中からは悔恨の痛ましい泣き叫びと苦悶の声とがいつも立ちのぼっているのである。しかし天にある善霊にはこの煙も見えず、苦悶の叫び声も聞えないように備えられている。ただしある者が特別な理由によって暗闇にいる悪い魂の状態を見ようと願う時は例外である。
大概は天使が行うが、我々の親族及び愛する者また聖徒達も時々見えない世界から我々を助けかつ守る為に近づいて来ることがある。
けれども極めて特別な時を除いては我々にその姿を現わす事は許されていない。その姿を現わさないで我々に聖い思想の感化を与え、神の側へ、また善行へと向わせる。
どんなに偉大な人も知識や地位が全てではない。またこれら知識や地位によって誰も偉大になる事は出来ない。人は他人の為にいかに尽くしたかによって偉大になるのであってそれが人間本来の道である。人が愛をもって他に仕える事が大きくなるに従いその人の偉大さも増すのである。
主が言われたように『あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない』のである。
すべて天に住む者の喜びは愛によって互に仕える事であり、こうして永遠の生の目的を満たしながら神の前にいつまでも留まるのである。
人々が神に感謝し熱心に神を喜ばせようと願えばこの世の中にいるうちから善霊の援助が始まる。この様な時、神が直接に教え給うのみならず、心の中で見えないけれども、その人々を助けて、善い方へ進ませようとして常に近くにいる聖徒達が一緒になって助けてくれる。しかしキリストの信者の中でも、又信者でない真理の追求者達の中でも真理について誤った見方を持ったまま死んでしまう人々が多い。
しかし彼等が霊界に入って自分の意見に対し頑固にならずに真理を学ぶことを喜ぶならば霊の世界に至って矯正されるのである。
この世においても次の世においても、神はどんな主の僕も含めて人間の意志に反して信ずる事を強迫するようなことをしないのである。
多くの者はひそかに罪を犯しつつ、それがいつ迄も誰にも知られずに済むと思っている。しかしどんな罪であっても永久に隠されて残る事は不可能である。何時か必ずそれは明らかになり、罪人はそれに相当する刑罰を受ける。同様に正しい事も決して隠されて終る事はない。しばらくの間は認められなくともついには明白になる。
天においては誰も偽善者でいる事が出来ない。それはすべてのものは、他の者の実情をありのままに見る事が出来るからである。栄光のキリストより流れ出る光は万物を照らし、あらわにするから、悪人は悔恨の中に自らを隠そうと努め、義人は光明に満ちた父の国に入り無上の喜びに満たされる。そこでは善はすべての人にあらわになり益々進歩して止まることがない。彼等の進歩を防げる何物もそこに存在せず、彼らを支持するすべての助けが備わっている。
霊魂が到達した善の程度は彼の全容貌から放射する輝きによって知られる。なぜなら品性及び性質は大きな栄光をあらわし様々に輝く虹の如き色彩のかたちによって、それ自身を表すからである。
天には嫉妬がない。すべての者が他人の霊的向上と栄光とを喜び、全く利己的な動機がなく常に相互に心より仕えようとしている。
天の無数の祝福が共同の使用の為にそなえられている。誰も自己心より、自分の為に何か貯えようと考えるのではない。
万物はすべての人にとって充分にあるのである。
愛なる神は天の最高の位に座し給う。神より、愛の波が流れ出て、宇宙の果てにまで及び、すべての聖徒と天使とを通して流れ、その触れる処、何物にも活力を与えて活気を満たす。
天には東も西もまた南も北も無く、ただ人或いは天使にとって神の御座は全てのものの中心として現われる。
そこにはまた各種の美しく甘味な花や果物や多くの種の霊的食物がある。
それ等を食べる時には優れた風味と爽快さとを経験する。
簡単に言えば、天に住む全ての者の願望と要求とは神にあって充分に満たされている。それは各々の生活の中に神の意志が全うされ、天の全ての条件と、あらゆる状態において万人は驚くべき喜びの尽きる事のない経験を持つからである。
この様にして正しい者の到達する所は永遠の喜びと祝福とがある。
天または神の国はこの世に住む全ての真の信者の生活の中から始まる。彼等の心は常に平和と喜びとをもって満たされ、どんな迫害と困難も忍ばなければ成らぬともこれを意としない。それは全ての平和と生命との源なる神が彼らの中に住み給うからである。死は彼らにとって死でなく、永遠の家へ、とこしえに入る門戸である。既に永遠の神の国へ新たに生れたものでも、肉体を離れる日は彼らにとって霊界への誕生であって、死ではない。かつ非常な喜びの日でもある事も当然である。
一人の幼児が肺炎で死んだ。
その時一群の天使が来て彼の魂を霊の世界へ護って行った。私は彼の母がこの驚くべき光景を見る事が出来たらと願った。もし出来たならば、泣く代りに喜びを以って歌ったであろう。なぜなら、天使達がこの幼児をいたわり世話するその愛と行き届いた取扱いはどんな母も為し得ない程のものである。
一人の天使が私に向かってこう言った『ごらんなさい、この幼児の母は短い別離の為に如何に悲しみ泣いていることでしょう!僅か数年の後には、彼女もその子供と再会の幸福を得るであろうに』と。そして天使達は幼児の霊魂を天の美しい光の満つる所に導いた。これは幼児達の為に特に定められた処である。ここで天使達はすべての必要な天の知恵を彼に与えて、育てるのである。
時を経て、子供の母もまた死んだ。その時成長した彼女の子供は、天使達と共に来て彼女の魂を歓迎した。『お母様、あなたは私を御存じありませんか。私は、あなたの子、セオドールですよ』と言うと母の心は喜びに満ち溢れ抱き合って、喜びの涙は花びらのように落ちた。これは実に感動的な光景であった!
それから母と子はともに歩みながら、この霊の世界を母に説明した。
そして中間状態に留まるよう彼女の為に指定された期間、彼も母と共に留まり、その世界に入る為に教えられるべき必要な時期が来て、彼自身の住んでいた更に高い境域へ共に登って行った。
そこにはあらゆる方面に喜ばしい事があり、数え切れない程、多くの霊魂に囲まれていた。その人々は地上においてキリストの証の為に各種の苦難を受けた人々で、この栄誉ある所に挙げられたものである。そのまわりには比類の無い極めて美しい山、川、泉などの自然と花園があり、あらゆる種類の豊富な甘味な果物や美しい花が満ちていて、心が要求するような物はすべてその所にあった。
その時彼は母に言った。『地上世界に在るものは、この真の世界のおぼろげな投影に過ぎない。我々を愛する人々が我々が去った為に悲しむけれども、これは死と言うよりもあらゆる真の生命ではありませんか』と。母は答えて言った。『子よ、これこそ真の生命である。もし私が地上に居た時、天の真理を充分に知ったならば、決してお前の死について悲嘆にくれなかったであろう。地上世界にいる者がかくも盲目である事は何たる痛ましい事か!キリストがこの光栄の状態について充分に説明して下さった福音書には、繰り返しこの父の永遠の王国について語っていらっしゃるにも拘わらず、ただ無知な人々のみでなく、多くの信者迄が今なおこの栄光については共に無知の有様となっている。神よ、どうかすべての者をこの喜びの中に導き給わん事を』と。
ドイツの一哲学者の魂がこの世界に入ってきた。
そして、遠くに霊界の素晴らしい光景と人々の限りない幸福を見て喜んだ。
けれども頑固な知識偏重主義の彼はその霊界に入りながらも幸福をいつまでも喜ぶ事が出来なかった。
彼はそれが真のものであると認めないで、自らの心の中でこのように言った。『私がこれらのすべてを見る事は疑う余地がない。しかし、それが客観的な実在性を持つと言う証拠が何処にあるのか、私の精神が描き出したある錯覚(迷想)ではないのか。これらの光景を果てから果てまで哲学と科学との論理に証明し照らし合わせて、初めてそれ自身に存在性が認められ、これが私の妄想でないと言う事を信ずる事が出来る』と。
その時天使等が彼に答えて言った。『君の言っていることによって、知識偏重主義が君の性質をゆがませている事がわかった。霊界を見る為には霊の眼が必要であって、肉体の眼は必要ない。その実在を悟る為には霊的理解力が必要であって、論理と哲学の基礎などは必要としない。物質的事実を取り扱った君の科学は、君の頭蓋骨及び脳髄とともに、地上世界に残して来たのだから、ここではただ神に対するおそれと、愛から出る霊的な知識のみが必要である』と。
その時天使の一人が他に向かって言った。『心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう』。
私が彼らにこの人の終りはどうなるかを聞くと、彼は答えて『もしこの人の生涯全体が悪かったならば、直ちに暗黒の霊に加わったであろう。
しかし彼は道徳的な意識を持っていた。それ故、彼はその哲学的な頭をつき当てながら中間状態の低い霊域を極めて長い間盲目的にさまよい、己れの愚かさに疲れ果てて初めて悔い改めるのである。しばらく彼はこれが為に天使より必要な教訓を受ける心の準備をして良く教育を受けた後に、初めて神の光が更に満ちる高い範囲の中へ入って行くのである』と答えた。
この世界は、無限な空間の全部が霊なる神の存在で満たされている世界である。
他の意味から言えば、世界もまた霊界である。地上世界の住民は人体を着た霊だからである。しかし他に霊の世界がある。そこは死によって肉体を遺した霊の一時的な住居である。これが中間状態で、最も高い栄え輝く世界と、朦朧又は暗黒なる最も低い地域との中間状態にある。その中には生きるものの無数の帯があって、魂は地上世界において行なった度合に従って、その状態に合った所に導かれる。そこで天使達が特に彼等の霊の社会に入ろうとする前、しばらくの間、教育する任務を授けられている。
善い霊は更に輝く光の中へ、悪い霊は暗い暗黒の中へ、各自の内的性質と、精神的傾向に従って入って行くのである。
これもまた同じく霊通状態で聞いたものである。或る人が自分の室でひそかに罪深い業を行っていた。聖徒の一人が言うのに、『その時、彼の霊眼が開かれていたらどんなによかったか。そうすれば彼は決してその罪を犯すことはなかったに相違ない』と。何故ならばその室の中には実に数多くの天使と聖徒とがいたのみでなく、そこへ来た者の中には彼の愛する霊もまた彼を助けようとして来たのであった。それ等のすべては彼の恥ずべき行為を見て憂い悩んだ。
そしてその中のある者が言った。『我らは彼を助けようとして来た。しかし今や、我らは彼の審判の日に立って罪の証をしなければならない。彼は我らを見る事が出来ない。しかしながら我々はみんな彼が罪にふけっているのを見る事が出来る。どうかこの人が悔改めて来るべき刑罰より救われん事を願う!』と。
私は霊通状態において一人の偶像崇拝者が死んで霊の世界に入って来たのを見た。彼はすぐに自分の拝んでいた神を探し始めた。そして聖徒達が彼に『一人の真の神とその顕現であるキリストの外には神のない』事を語った。
この事は非常に彼を驚かしたけれども彼は真面目な真理の探求者であったから、自分の誤っていた事を心易く承認し熱心に真理の正しい見方を知ることを求め、もしやキリストを見る事が出来るだろうかと尋ねた。
しばらくしてキリストは彼と新たに霊の世界に達した霊達に対して、かすかな光の中に自らを示し給うた。なぜならこの程度の霊はまだキリストの十分な栄光の啓示に堪える事が出来ないからである。主の栄光の輝きが極めて大きいから、天使といえどもこれを見る事が困難であるので、その翼で顔をおおうくらいである。故に主が誰にでも自らを顕し給う時にはその霊魂が達した心の進歩に応じて、おぼろにあるいははっきりと堪え得る程度に従って示し給うのである。こうしてたとえ、おぼろでもその心を引きつける光の中で、キリストを見る時に、彼等は喜びと平和とで満たされるのである。その喜びの様子は到底言い表す事が出来ない。
キリストの生命を与える光の放射と、絶え間なく彼より流れ出て彼等を越えて奔流する生命を与える愛に浴し、すべての誤りは洗い去られてしまうのである。
やがて彼等は全心を以て彼を真理として認める。そして謙遜の限りを尽くしてひざまづき感謝し讃美する。その時彼等を教えた聖徒等もともに喜ぶのである。
ある時私は霊の世界において一人の魂が悔恨の叫びをあげつつ狂人のように駆け廻っているのを見た。その時一人の天使が私に言うのに、『この人は地上にいた時、悔い改めて神に帰るべき多くの機会があったけれども、悩みを感ずると何時も酒を飲んでこれをまぎらわしていた。その為、遂にその財産を使い果たし、家庭を破壊し、遂に自殺したのである。こうして、今、霊の世界において狂犬の如く暴れ狂って、彼の失った機会を悩んでもがき苦しむのである。私たちは彼を助けようとしている。
しかし彼自身の歪んだ性質が悔い改める事を防げさせている。罪の記憶が何時も彼にとって新しく、罪の為にその心がかたくなにされてしまったのである。肉体の世においては酒を飲んで良心の声を忘れることは出来たけれども、この霊界では、何を以てしてもこれをおおいかくす事が出来ない。
今や彼の霊は、彼自身にも霊界のすべての人々の前にも、その罪深い生涯がことごとく見られるように赤裸々である。自分の罪の為に頑固になった彼の心にとっては、他の悪霊等とともに暗い中に自らを隠すより外には為すべき術がない。
このようにして光の苦痛から逃れるのである』と。
霊通状態に入った時、一労働者が死んで霊の世界に入ったのを見た。
彼はその全生涯を日毎の糧を得る事しか考えておらず、他の事を思っていなかったから非常に悩んだ。彼は忙しすぎて、神及び霊の事を考える事が出来なかったのである。
彼が死んだのと同じ時に他の一人が死んだ。彼は疑惑者でその考えは実に頑固であった。両人とも霊の世界においては遥か下の暗黒な場所に長く留まるよう定められていた。
彼らはこの苦痛に耐えかねて助けを求め始めた。そこで聖徒と天使とが愛と同情とでどうしたら神と光の国の一員となる事が出来るかを理解するように教えようとした。
しかし彼らはこのように悩んでいたにもかかわらず、他の霊等の如く暗い住居に留まる事を選んだ。その罪は彼らの心をこんなにまで歪めてしまい、すべての事を疑うようになってしまったからである。私は彼等に注意を払ってその後はどうなる事かと尋ねると、聖徒から得た答えはただ『神願わくば彼等をあわれみ給わん事を』と言うだけであった。
人間の邪悪になった性質が如何にひねくれているか次の例によって知る事が出来る。彼等が他人の悪い評判を聞いた時、それが誤りであっても罪の心で見る為に歪んでいて直ぐにそれを真であるとして受け入れてしまう、これに反し善で真の評判を聞いた時、例えばこれらの人は敬虔な人であって神を信じる人々の為に、彼が事業をしたと言っても、この様な種類の人はすぐ、『それは嘘だ。その人間はその事業の裏に自己本位な動機を持っているに相違ない』と言う。
なぜ前の場合は真で後の場合は嘘か。どこに証拠があるかと問えばこれについて少しも挙げられるような証拠を持っていない。この様な心の態度によって学んだ事は、彼の心が悪に染まっているから悪い知らせが聞こえて来た時には自分の悪い性質によく符号し、善い知らせは彼の心の悪と食い違うから偽りとするのである。善人はその性質上これと正反対で彼は自然に悪い知らせを疑い、善い知らせを信ずる傾向を持っていて彼の態度は彼の性質の善と最もよく符号するからである。
この世において神の意志に反する生活を送る者は地上に於いても、霊界に於いても決して心に平安を得る事が出来ず、霊の世界に入る時に混乱と悩みとを感じる。しかしこの世において主の意志と調和している者は次の世界に達した時に平和であり、言う事の出来ぬ喜びを感ずる。そこには彼等の永遠の家である父の御国があるからである。
自ら非常に博学で宗教的だと思っている一人の教職者が、十分老年に達して死んだ。疑いもなく彼は良い人であった。天使達が主によって彼の為に定められた霊界の場所へ連れて行こうとして来た時に、彼を中間状態へ導いて、近頃ここに達した他の多くの善い霊とともに、善い霊を教育する天使達に引き渡して、彼等自身は、又、他の善い霊を案内する為に帰って行った。
その中間の天には、階級の上に階級と幾重にも高い天に重なっていてどんな霊魂も地上の生活における善の度合に従った処に入って、教えられる階級が決定されているのである。
この教職者をこの階級に置いた天使達が他の魂を、教職者の階級を越えて、更に高い階級に入れた。これを見た彼は騒がしい声で叫び出した。『何の理由で君等は私を栄光の国の中途半端な処に残して、他の人をより高く連れて行くのか。聖い事においても、また他の何事にも私は他の人にも貴方がたにも劣っているものではない』と。
天使は答えて、『ここにおいては大小、又は多い少ないは問題ではない。ただ生涯と信仰とによって当然受くべき階級に入れられるのである。君はいまだ、より高い階級に進むだけの十分な準備が出来ていない。故に、しばらくここに止まって、我等が教えるように定められた事を学ばねばならない。やがて主が我らに命じ給う時には、大なる喜びをもって、君を更に高い階級へ御導きしましょう』と。
彼は言った。『私は一生の間、天に至る道について人々に語った。これより以上何を学ぶ必要があるのか。私はそれ等についてすべてを知っている』と。そこで天使が言った。『彼らは今、上に行かねばならぬ。我らは止める事が出来ない。しかし我々は君の質問に答えよう。我が友よ。私が明白に語ることも君は気を悪くしてはならない。これは君の為だからである。
君は一人ここにあると思うが、主もともに居られるのだ。ただ君が主を見る事が出来ないだけである。「私はそれに就いてすべてを知っている」と言った事に主を見る事も、より高く登る事をも防げている。謙遜がこの傲慢の治療法である。これを実行しなさい。君の要求は満たされるであろう。』
その後一人の天使が彼に語った。『今、君の上に高く進んだ人は博学でも、また有名な人でもない。君はよく注意して彼を見なかったか。彼は君自身の集まりにおける会衆の一員であった。人々は彼をよく知らなかった。なぜなら彼は一人の労働者であって、その仕事ぶりは一生懸命であった。そして多くの人は彼を勤勉で正直な働き者として知っていた。彼のクリスチャンとしての品性は多くの人々にも認められていた。彼は戦争の時に召集されてフランスへ行き、或る日、戦場において負傷した一人の友を助けていた時に、弾丸にあたって殺されたのである。彼の死はこのように急激なものであったが、勤勉で正直なクリスチャンとしてよく準備が出来ていた。
それ故に彼は君のように長い間、中間状態に止まらない。彼の上進はえこひいきの為ではなく、彼の霊的価値の故による。地上にあった間、彼の祈りと謙遜とその生活が霊界において大きな向上の準備をさせたのである。今や彼は指定された場所に達して、喜びつつ御恵みによって彼を救い、永遠の生命を与え給う主に感謝し、かつ讃美しているのである』。
私の前に、一人の悪人が死んで霊の世界に入って来た。天使や聖徒達が彼を助けようとすると、直ぐに聖徒等を呪い、かつ罵って言った。『神が絶対悪いんだ。彼はお前等のようなおべっかな僕らの為に天を備えて、他の人間を地獄に投げ込んでしまうではないか。それなのにお前等は彼は愛だと叫んでいる!』と。
天使が答えて言った。『神は確かに愛である。神は人間を永遠に幸福な中に住まわせる為に造り給うたのである。しかし人が自らの頑固と自由意志の乱用とによってその顔を神より反け、地獄を自分のものとしたのである。神は誰をも地獄に投げ込み給わない。人は自らが罪の中にはまり込んで自分の為に地獄を造ったのである。神は決して地獄を造り給わない』と。
丁度その時、高い天使の一人が極めて美しい声で『神はこの人を天に携え来る事を許し給うた』と言うのが上から聞こえた。彼は元気に二人の天使に伴われて進んだ。しかし彼等が天の入口に達して、聖い光に包まれた場所と、その所に住んでいる光ある祝福に満ちた住人とを見た時、彼は不安を感じ始めてきた。
天使が『御覧なさい。何と美しい世界ではないか!なお進んで愛する主がいらっしゃるのを見給え』と言った。彼が入口から覗いて見ると、義の太陽なる主の光が彼の不潔にして罪に汚れた生涯を顕わに照らした為に、彼は自分の心を覆い隠そうとして大急ぎで中間状態にも留まらずそこを通過し、底なき穴の中に真っ逆様に自らを投げ込んでしまった。
その時美しくてうっとりするような主の御声が聞え、『見よ。我が愛する子等よ。誰も此処に来る事を禁ぜられて居る者は無い。誰もこの人を拒んだものはなく、誰もここより去れと命じた者は無い。この聖き場所から自らを逃れなければならぬようになったものは彼自身の不潔な生涯である。それは真にあなたがたに言っておく、だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』からである。
自分が死ぬ何年か前、キリストの説教者を殺した男がジャングルの中で蛇に噛まれて死んだ。彼が霊の世界に入った時に彼の周囲には善、及び悪の霊が沢山いるのを見た。彼の霊の姿はことごとく悪である事を現していたから、直ぐに悪霊が彼を捕え下の暗闇に押しやった。
その時聖徒の一人が言った、『彼は神の人を怒の毒を以て殺したが、今や彼は蛇の毒によって殺された。悪霊はこの人を用いて、罪のない人を殺したが、今は自分に似た他の霊を用いてこの人を殺した。それは「彼は初めから、人殺しだから」である』と。
そして殺された人の霊は彼が連れ去られて行こうとしていた時に、助けようとして来た善い霊の中にいて彼に言った。『私はまごころを以て君の罪を赦す。今、君を助ける為に何か私にして貰いたい事があるか』とたずねた。この時彼は、すぐにその人は何年か前に殺した人である事を認めて恥じ、かつ恐れに打たれて、その前から下へ落ちるや、忽ち悪霊達が声高く騒ぎを始めた。しかし隔って立っていた天使達が悪霊達を叱責して沈黙させた。その時、殺人者はその殺した人に言った。『あなたの無私な愛すべき生涯をもしも生前に見る事が出来たならば、どんなに良かったかと私は切に思う!
私が盲目であった事と、あなたの真の霊的生命は肉体にさえぎられてその内にある美しさを見る事が出来なかった事を非常に悲しく思う。私はあなたを殺した事によって多くの人にあなたが与える祝福と善とを共に奪ってしまった。今や私は神の前に永久の罪人であって十分の刑罰に価するものである。私は自分を暗い穴に隠すより以外に為すべき事を知らない。私はこの光に堪える事が出来ないからである。その中に居たら私の心が哀れになるだけでなく、すべての人が、私の罪深い生涯の詳細を残らず見る事が出来るからである』と。
これに対し殺された人が答えた。『君は真に悔い改めて神に帰るべきだ。もしそうすれば君に新しい生命が与えられ地獄の苦しみより救われて我らと共に住むようになるであろう』
殺人者が答えて言った。『私の罪は皆あらわにされているからもはや、告白する必要はない。地上に於いては隠す事が出来たけれども、ここでは出来ない。私は君のように天において聖徒とともに住む事を望むけれども、霊界のわずかな光に身をさらされる事にも堪えられないのに、光に満ちた栄光の中へ行ったならば、どうなるであろう。私の最も大きい障害は自分の罪のために良心が鈍くなり、頑固になり、私の性質は神に向かわず、又悔い改めに傾かない事だ。私の心にはもはや悔い改むべき能力も残されていないように感じる。今はその為に良心の何物も残っていない。ただもう永久にここから逃げ出さねばならない。ああ私の不幸な状態よ!』彼がこのように言った時、恐怖に襲われて倒れ落ちた。
すると悪霊達が彼を暗闇の中に曵きずって行った。その時天使の一人が言った。『見よ!ここでは何等刑罰の宣告を読み上げる必要の無い事を。如何なる罪人も、各自の生涯それ自身が罪深い事を証明する。彼に告げる事も、彼に反対して証拠を挙げる事も必要ない。ある程度までは肉体の在る時から罪人の心に罪の刑罰は始まるのであるが、ここに来てからその結果を十分感じるのである。
ここにおいて神が羊と山羊とを分けるように彼ら自身の内容に従って、正しいものと罪人とを分け給う。
神は人を光の中で活かし、これによって霊的健康と喜びとが永遠に続くように創造し給うた。それ故に如何なる人間も地獄の暗闇においては幸福になることが出来ない。それ故に罪人は何処へ行くにしても地獄の中に自己を見出すのである。これに反し罪より離れ、義なる状態に在る者は何処へ行くにしても天である。両者が如何に相反するかよく見よ!」と。
地上において、いつも偽りばかり言っていた結果、それが第二の天性となった者がいた。彼が死んで霊の世界に入った時、いつものように偽ろうと試みたが、彼が偽りを言う前にその思想がすべての人に知られていた為に非常に恥をかいた。霊界では心の如何なる様子も隠す事が出来ないから、誰もが偽善者でいる事が出来ない。魂が肉体を離れると、すべての罪が明らさまになり、天の光の中で赤裸々にあらわれる。その時、すべてのものがその罪を見る事が出来、その同類さえもそれに対して証言者となるのである。しかしキリスト以外に何物もこれを消し去る事は出来ない。
その人は地上にいた時、常に善い事を悪く、悪い事を善いように歪めて見ていた。しかし彼がこの霊界に於いてはもはや決して真理を偽る事が出来ない事を知った。偽る人は誰を欺くのでもない、自分を欺くのである。そしてこの人は偽る事によって、かつて持っていた真理に対する良心の認識力を殺してしまった。私が彼を見ていると、自分が偽りの中で理解出来ない心のもつれに悩み、上からさし込んでくる光に顔をそむけ、暗黒の遥か深い処へ急ぎ下り、彼と同じ性質を持つ霊の外には誰も彼の汚れた姿を見る事が出来ない処へ逃れ去った。なぜなら真理は常に真理であるから、この真理がその人にその罪を宣告し彼を偽り者として審判したのである。
私は少し前、霊の世界に達したばかりの姦婬者の霊を見た。彼はあたかも渇きによって悩み果てた人のように舌は垂れ下がり、鼻の穴は膨張し、体の中に一種の火が燃えるようになって、手を打ち叩きもがいていた。私がそれを見た時に、その姿が余りにも悪くけがらわしい為に直ぐ顔を背けてしまった程である。すべての贅沢な附属品と感覚的なものは地上に残して来て、今や狂犬の如く走り廻り狂いながら叫んだ。
『この生を呪え!総てこの苦しみを終らせる死がここには無いのだ。霊はもはや死ぬことが出来ないのだ。もし出来るならば地上において苦しみから逃れる為にピストルで自殺したように、この霊界でもしたいけれども、もう出来ないのだ。この苦しみは地上の苦しみよりも遥かに大きい。私はどうしたら良いのか』と言いながら暗い方へ走って行った。そこで他の似かよった精神を持つ多くの霊に伴われ、去って見えなくなってしまった。
聖徒の一人が言うのに『悪い行為が罪であるばかりでなく、悪い思想も汚れた目で見ることもまた罪である。この罪はただ変な女と商売するばかりでなく、一人の妻との間においてさえ過度の動物欲に耽けるものはその中に含まれるのである。一人の男子とその妻とが結び付けられるのは肉欲の為でなく互に助け合い、支え合い、彼らとその子供らが人類への奉仕と神の栄光にその生涯を費すためである。しかし生涯をこの目的からはずれるものは、姦婬者の罪を負うべきである」と。
一人の盗賊が死んで霊の世界に入って来た。最初は彼自身の状態にも、まわりの霊についても何の興味も持っていなかったようである。しかしすぐ悪いくせが出てその場所にある良いものを盗もうと考えた。しかし彼は霊界のすべての物が皆、彼の生前のすべての不義を語り始め、彼の業を責めているようなのでびっくりした。彼の性質が非常に邪になっていたから、その性質がこれらのものを受けつけることが出来ず、また正しく導くことが不可能であった。地上においては彼の欲心が無制限であったから、極めて些細な事でも彼の気に障るものは怒って殺し、あるいは傷つけた。今、霊の世界においても同じような事をしようとし、彼を導こうとして来た霊達に向い、丁度猛犬がその主人の前も憚らずに荒れ廻るように、彼らをきれぎれに引き裂こうとするようなさまを現した。
そこで天使の一人が言った。『このような種類の霊は底なき穴の暗闇に閉じこめなければ、このものの行く所全て災害をかもしだすであろう。この人の良心は霊の世界に入った後も、なおその事を悟らぬ程死んでいる。これは地上において殺し、また盗む事により自らの霊的な富を消耗し、自らの霊的識別力と生命とを滅ぼしてしまったからである。
彼は他人を殺し、また亡ぼしたが実は自らを滅ぼしたのである。この様な種類の人々は幾時代も悩むか、また永遠に苦しむかはただ神のみこれを知り給う』と。
この後天使達は命ぜられている義務に従い彼を捉えて、出る事の許されぬ暗い中へ閉じ籠めてしまった。その霊界の悪人の状態は実に怖るべきもので、その苦悶の恐ろしさは口に言う事が出来ず一目見た者は戦慄してしまう程である。
この世の制限ある言語をもっては言い表しようがないくらいだが、罪人の霊魂のある処は、何時でも、またどこでも、ただ一瞬の間も止まぬ苦痛の外は何もない処である。光のない一種の火が絶えまなく燃えて彼等の霊魂を苦しめ、しかも彼等は死ぬ事なく、火は消える事がないのである。
地獄と呼ばれる霊的暗黒世界にも多くの差別がある。その中に悩んでいる霊の特種な者も皆、各々の罪の量と性質とに従って苦しむのである。神がすべての人を自らの姿、かたちに似せて造られたのは事実である。しかし彼らが罪と結び付く事によってそのかたちを損じ、醜く、邪悪なものとしてしまったのである。彼等はたしかに一種の霊体を持っている。しかし非常に忌まわしくまた恐るべきもので、もし真の悔い改めと神の恵みとに依るのでなければ、この怖ろしい姿をもって、永遠に苦悩の中に留まらねばならない。
三十年間まごころをもって主に仕えていた真の信者が死んだ時にどうなったかを、天使の一人が私に告げた。死ぬ少し前に神が彼の霊眼を開かれて、いまだ肉体を離れぬ中に霊界を見せ、その見た事を語る事が出来るようにされた。彼は天が彼の為に開け、天使及び聖徒の一群が出て来るさまと、救い主が彼を迎えようとしているのを見た。
このすべてが彼の上に突然打ち開かれたのを見て、傍にいる人をびっくりさせる様な声をもって叫んだ。『私にとって何たる幸福の時か!私は長い間、私の主を見ようと願い、主の処へ行く事を待ち望んで来た。おお友よ!愛によって照り輝く主の御顔と、私の為に来た天使たちの群とを見よ。何たる光輝ある処か!友よ、私は真の私の家へ出発するのだ。私の出発を嘆かずして喜べ!』と。
かたわらに居た人の一人が静かに言った。『彼は気が変になっている』と。その囁く声を聞いて、彼は言った。『否、そうじゃない。私の心は全く確かだ。私は貴方がたがこの驚くべき光景を見ることの出来る事を望む。これが貴方がたの目に隠れている事を悲しむ。さようなら。私たちは次の世で再び逢おう』と言って目を閉じ、『主よ、私の魂を汝の手にゆだねます』と叫んで眠りに就いた。
彼の魂が肉体を離れるや否や、天使達はその腕に彼を受けて去ろうとした。しかし彼は僅かの間、待つ事を願い、その命の無い肉体と、友人等を見つめて天使達に言った。
『私は肉体を離れた霊が自分の体とその友とをこのように見る事が出来るとは思わなかった。私は友人達が私を見る事が出来る事を願う。もし出来たならば彼らは私を死んだ中に数えず、また私の為に泣かないであろう』と。
彼は自分の霊体をしらべて美しく輝き、粗雑な肉体とは全く異なる事を見出した。これによって彼は冷たいなきがらに向かい、抱きつつ接吻している妻子をやめさせようとした。彼が微妙な霊の手を延べて彼等に説明し、大なる愛をもって彼等をそのなきがらから去らしめようと努めた。
しかし彼らは見る事が出来ず、その声を聞く事も出来ない。子供らをそのなきがらから離れさせようとした時、その手は丁度空気の如く肉体を通り過ぎて、彼等は全くそれを感ずる事が出来なかった。その時、天使の一人が言った。『来なさい、私達はあなたを永遠の家に案内しょう。彼等のために悲しむな。主御自身も、また私達も彼等を慰めよう。この離別は僅かの日数に過ぎないのだ』と。
やがて天使達にともなわれて天へ向かった。彼等が少し進むや、他の天使達の一群がこれに逢って、「歓迎」と叫んだ。先に死んだ多くの友と彼の愛した人々もまた彼を迎えた。これを見てその喜びは一層増し加わった。天の門に達すると天使達、及び聖徒達は黙って両側に立った。彼が中に進むや、入口においてキリストに逢い、直ちにその足下にひれ伏して拝した。
しかし主は彼を引き起こし、抱いて言われた。『良くやった。善なる僕よ、喜びの世界へ入りなさい』と。その時、彼の喜びは言い表す事が出来なかった。彼の眼から涙が流れ落ちると主は大いなる愛を以てこれを拭い去り天使に向かって言われた。『彼の為に初めより備えられた最も栄えある住居に案内せよ』と。
そこでこの人の霊はまだ、地上のような思想を持っていたから、主に背を向けて天使達と共に離れ去る事は主を汚す事かと思い躊躇したが、その顔を住居の方へ向けると、どこからでも主を見る事が出来る事を知って驚いた。それは、キリストはどこにも存在しておられ、どこからでも聖徒、及び天使達に見えるからである。主と共に喜ばしいものでもって囲まれているのを見て、歓喜にみたされた。ここでは最も低いものも、最高のものに対して決してねたみをもって他を見る事なく、また位置の優れているものは、低い位置にいる者に仕える事を幸福としている。これは神の国が愛の国だからである。
天のいたるところに壮大な園があって、常に各種の美しく甘味な果物が実り、また美しい香りの花が咲き、決してしぼむことがない。その中で各種の被造物は絶えず神を讃美する。色彩の奇麗な鳥が美しい讃美の声をあげ、天使や聖徒の美しい歌を聞く時、有頂天とも言うべき喜びを体験させられる。どこもかしこもはかり知れない喜びに満たされている。まさにこれこそ神を愛する者の為に備え給うたパラダイスであって、そこには死のかげも、誤りも、罪も、苦しみもなく、いつまでも続く平和と喜びとがある。
その後、この正しい人は遥か遠方から自分の為に指定された住居をながめて見た。天にあってはすべての物が霊的であり、霊眼は中間のものを透かして地上ではとうてい計る事の出来ぬ遠距離をも見ることが出来るからである。膨大な天の全距離を通して神の愛があらわれ、どこでも神の造り給う各種の物が喜び、神を讃美し感謝しているのを見る事が出来る。
この神の人が天使達に伴われて定められた彼の住居の入口に達した時、その上に輝く文字が「歓迎」と記されているのを見た。そして文字自身が聞こえる響きをもって、幾度も「歓迎、歓迎」と繰り返し繰り返し言っていた。彼がその家に入った時に驚いたのは、既にそこに主が居られた事である。その時の彼の喜びは、無上のものであり、彼は叫んで言った。
『私は主の命に従って主の御前を去ってここに来たのに、主御自身が私とともに住むためにここに居られるとは』と。この家には彼の想像力が抱き得るすべての物があり、また、すべての者が彼に仕えようと準備していた。近い家には彼自身の心に似た聖者が、楽しい交わりの中で住んでいた。この天の家は、世の初めから聖徒の為に備えられた国だからである。これこそ真にキリストに従うすべての者を待つ栄えある未来である。
これこそ神と主を愛し、正しい生涯を送った者の為に備えられた栄光の未来である。
終わり
神に愚直に仕える精神を学ぶ ― 「トルストイ:イワンの馬鹿」
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